町並み、村並み。地域文化は生業とともに。

●和紙と木蝋

江戸時代には内の子と呼ばれていた内子。河川が合流する小さな盆地に中心部が開け、門前町に立つ市が発達した。
近世には大洲藩6万石の領地となり、藩の専売品である和紙と木蝋の生産地として大いに栄えた。特に和紙は、半紙漉業者1,400人が居住し、藩の紙役所も置かれていた。明治時代になると木蝋が全国有数の出荷量を誇り、その豊かな経済力に支えられ、技術を駆使した建築物が立ち並び、文化や教育を発達させた。大正期に入ると木蝋産業は急速に衰退し、製糸業が隆盛した。交通は舟運から鉄道へと移り、次第に町も近代化の方向へ姿を変えていった。

●町並み保存運動との出会い

昭和50年、多くの地方は過疎と高齢化への危機を抱えながら企業誘致や観光開発へと流れていた。そんな時、内子町は「町並み保存運動」に出会う。周囲の賛同がない状況にあって、一人の町役場担当者が先進地や専門家とのネットワークを築きながら、内子町は町並み保存に乗り出した。

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●住民のよりどころとしての保存・再生

町並み保存の第一歩として、木蝋生産を担った旧家・上芳我邸を町が借り受け、見学施設とした。保存地区住民が心を寄せる核施設の存在が不可欠であると考えたからだ。その後、平成7年に上芳我邸活用の一環として木蝋資料館を併設し、かつて内子町に生きる人々の生業を支えた木蝋生産に関する資料を展示し、歴史の資源化を図った。
町並み保存が制度を受けて始まったのは昭和53年。老朽化によって傷んだ建物の修繕など、4年間で22軒が保存事業に取り組んだ。行政からの支出は総額でわずか1,000万円程度であった。そして昭和57年、内子町の八日市護国地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
歴史的環境運動は、町並み保存地区の指定外にまで広げられた。それが商店街の一郭にあったかつての芝居小屋「内子座」である。駐車場にしようとする声すら上がった時期、住民の誇りを鼓舞するものとしても保全にこだわり、昭和60年に修復完成した。今では、国際シンポジウムや子供たちの芸能発表場、そして観光客の見学の場として機能している。
「商いと暮らしの博物館」は、江戸末期に建てられた薬屋の大店を後継者がなく廃業するところを行政が買い取って歴史民俗資料館として整備、活用しているものである。
また、日本ビール業界の基礎をつくり育ててきた故高橋龍太郎の生家が町に寄贈され、文化交流ヴィラ「高橋邸」となった。これは地域の女性10名で組織するグループが経営を担い、小規模なゼミ会場、茶会席、宿泊、喫茶など多様な使い方で維持されている。

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●石畳の宿と村並み保存運動

町並み保存運動が一定の進捗をみた段階で、農村における自然と景観の保全「村並み保存運動」が始まった。内子町で最も奥地にある石畳地区で、自然環境と農業、暮らしの姿を動態保存として地域住民の手で守り、景観景勝地としての維持に努めている。水車の復原と精米、農家住宅の再生と民宿の経営による食文化の維持、近自然工法に基づく川づくりなど、多様な手立てによって運動が進んでいる。

●観光産業の基盤

内子町の町並み保存運動や村並み保存運動は、一定のブランド力を創り出し、観光産業としての基盤を創ってきた。
町並みが整備されると、多くの来訪者が訪れ、新たに喫茶店やホテル、小売りの店舗も増えた。こうした人の流れは農家にやる気を起こした。昭和55年に4人がはじめた観光農園は、その後30世帯ほどに及び、後継者もUターンした。また、農村ツーリズムの拠点である石畳の宿には、年間800人の宿泊客があり、その土地のものをその土地で提供する取り組みが広がっている。さらに、道の駅「フレッシュパークからり」では農産物を直接販売することにより、農家収入に寄与している。
四国の人口はわずか380万人であり、観光振興には極めて小さな規模であるが、現在の内子町には年間100万人の入込があり、地域の個性化によって観光産業の発展を図っている。

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●人が育つ環境づくり、人を育てる施策づくり

内子町では、「地域社会における文化の保存は、博物館に展示されるものではなく、暮らしのなかに実践されてはじめて地域文化の保存である」という動態保存の考え方に貫かれている。これは、行政が住民との対話を重ねながら「人が育つ環境をつくり」「人を育てる施策をつくり」、これに住民が実践して進めてきたものである。そして、これからも世代を超えて守り続けられていく運動として期待されている。