住民が生み出した博物館。地域の中で使命を担って-石見銀山-

●世界に知られた石見銀山

島根県大田市大森町は、中世末から近世にかけて「石見銀山」と称された。当初は地表に露出した銀を掘り出していたという。1533年に導入した技術によって大量生産が可能になった。1595年ベルギー製の「日本図」にも「銀鉱山」と表記されており、16世紀末には世界的な銀山として認識されていた。
江戸時代には天領として繁栄し、『石見銀山日記』には慶長(1596-1615)初期には「人口が20万で寺院は100あり、その賑わいは京や堺に匹敵する」と記されるほどであった。

●住民による保存活動と石見銀山資料館

繁栄を誇った石見銀山だったが、大正12年に休山となってからは、衰退の一途をたどった。昭和30年代後半にはゴーストタウンと言われるほどであった。急速な過疎化に危機感を抱いた住民は、昭和32年、全戸をあげて「大森町文化財保存会」を結成し、史跡や河川の清掃・保存活動を地道に続けていた。
旧代官所跡地には明治35年に建てられた旧邇摩郡役所もあり、町の歴史を忍ばせる建物であった。郡制の廃止後は土木事務所や保育園などに利用されていたが、昭和51年、老朽化を理由に建物の解体計画が浮上。地元住民有志による保存運動が展開され、解体計画は白紙となり、建物は大田市より大森観光開発協会が無償譲渡を受けることになった。その後建物を改修し、「石見銀山資料館」として開館した。
資料館の運営は任意団体によるもので、現在の会員は個人12、法人1である。正規職員として館長と学芸員各1名、非正規の職員1名で運営している。運営費は入館料と物販収入によって賄い、設立以来地方自治体等からの助成金や補助金は受けていない。

case05-01

 

●地域遺産研究の視点

石見銀山資料館では、予算や施設面での制約から、展覧会などの開催よりも学術研究活動に力点を置いている。独自の研究活動のほか、島根県教育委員会が実施する世界遺産石見銀山遺跡の調査研究への参加・協力や助成プロジェクトなどに取り組んでいる。
これら研究活動の目的は、石見銀山の歴史的な解明を通じて石見銀山及び周辺地域の歴史性の再評価である。「地域資源」を見る時、地域の社会・経済活動にとって有用かどうかの視点を持つことを重要視し、地域遺産の研究を積極的に進めている。

●自然との共生、歴史遺産との共存

石見銀山遺跡は平成19年に世界遺産に登録された。中世から近世における日本の伝統的な鉱山開発の遺構が豊富で良好に保存され、往時の人々が暮らした町並みなども残り、周辺の自然と一体となって優れた文化的景観を形成していることが評価された。銀の採掘から積み出しのための港や街道、人々が暮らす町並みを含め、その指定範囲は572haに及ぶ。
観光にあたっても、世界遺産保護における観光リスクを排除するため、官民共同で策定した「石見銀山行動計画」に基づいて各事業を展開している。特に、自然と遺跡、人々の暮らしが共生する「リビングヘリテイジ」を掲げ、遺跡内への観光車両の制限や「歩く観光」を推進。石見銀山ガイドの会により各種コースやガイドツアーも実施している。

●大森町の保存活動

代官所があった鉱山町・大森は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。この一帯は武家屋敷や商家、古民家などが立ち並んでいるが、所有者による管理の手が行き届かない建物も多く、廃屋寸前のものも出てくる。こうした建物を購入し、再生しているのが地元の事業家たちである。
その一人、中村俊郎氏が経営する義肢装具メーカー・中村ブレイス㈱は、大森の地で事業を行い、約70人の従業員を抱える。中村氏が再生した家屋は40軒を超え、移住者を対象とする住宅や店舗、社宅として活用してきた。平成26年12月には、旧郵便局舎を改修し、「世界一小さなオペラハウス」として「大森座」を開いた。石見銀山の新たな文化発信地が誕生した。
また、服飾ブランドを展開する松場登美氏は、夫と共に暮らしに根差した事業を通して大森町のブランド化を進めてきた。そして、古民家を再生した「他郷阿部家」では宿として来訪者を迎え入れ、暮らしを提案する発信地となっている。

case05-02

 

●博物館の研究活動を地域へ活かす

石見銀山資料館は、地域博物館として「総合的な地域情報の集積」を使命としている。地域情報とは、自然や文化遺産、産業、教育、福祉、地域振興などあらゆる分野の情報である。そして研究機能を大いに発揮し、こうした情報を収集し研究を行うことによって、地域の持続発展のために活動を続けて行くことを目指している。