「小布施らしさ」をプロデュース-北斎と栗の町-

●北斎と栗の町

小布施町は、長野市に隣接した19.07㎢の小さな町である。千曲川に注ぐ松川の扇状地末端を町域とする。かつて松川が氾濫を繰り返して稲作には向かないが栗の生育に適しており、色合いや風味に秀でた名産地となった。栗は、町の主産業の一つとなっており、数軒の栗菓子の老舗企業がある。

江戸末期、83歳の葛飾北斎が初めて小布施を訪れた。通算で3年半の長きにわたって小布施に滞在し、多くの肉筆画の傑作を残した。この北斎を招いたのが豪農・豪商の一人、高井鴻山であった。

●北斎館

昭和41年頃から海外をはじめ国内でも北斎への関心が高まった。北斎ブームのなか、小布施町内の北斎の肉筆画が二束三文で買い取られ、作品の流出が目立ち始めていた。これに危機感をもった町は、北斎作品の流出を抑えるとともに北斎芸術の研究拠点として、昭和51年、「北斎館」を建設した。祭り屋台の肉筆画を主とする北斎作品の保存を目的とした美術館であったが、初年度の入館者は3万5千人、最盛期は40万人を超え、現在は20万人程度である。

●高井鴻山記念館と町並み修理景事業

昭和57年、小布施町は高井鴻山没後100年を記念して隠宅公開復元計画を立てる。隣接する地権者として、栗菓子の老舗企業である㈱小布施堂、長野信金小布施支店、民間の2軒に町が加わって話し合いを重ねた。企業、個人、行政という立場の異なる人たちが町並みの景観を実際に整えていった。じっくりと時間をかけた町並み修景事業は昭和61年までにほぼ完成し、高井鴻山記念館は歴史文化ゾーンの中心となった。

町並み修景事業は他の栗菓子の老舗にも影響を及ぼし、相次いで景観を意識した店舗を開店した。さらに新聞店、自転車店、鮮魚店、たばこ屋、土産物屋などの店舗、駅舎、家屋なども修景を意識した建築に変わっていった。

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●知的交流と学術研究の集積

平成10年、日本で初の開催となる「国際北斎会議」が開かれた。17か国から研究者ら300人が参加した。平成13年からは、小布施堂による「小布施ッション」がスタート。各界第一線で活躍するゲストを迎えて講話と交流会を行うもので、平成25年の最終回まで144人のゲストが登場した。

また、小布施町は大学との連携を積極的に進め、東京理科大学・小布施まちづくり研究所と法政大学・小布施町地域創造研究所を役場内に、信州大学小布施地球環境研究室を健康福祉センター内に開設している。

●花のまちづくりと観光への対応

小布施町では、町並み修景とあわせて花による「おもてなしのまちづくり」を推進している。花の情報発信基地「フローラルガーデンおぶせ」、花苗生産供給施設「おぶせフラワーセンター」をオープンした。平成12年には個人の花の庭をオープンガーデンとして開園し、平成25年度には130軒が登録するまでに広がった。

町域の小さな小布施町でありが、現在12の美術館・博物館がある。その中には、3つの老舗の栗菓子屋が関与したミュージアムも含まれている。

北斎館の開館以降、急激に増えてきた観光客に対応するため、第三セクター・㈱ア・ラ・小布施を設立し、観光案内と宿泊施設の運営をはじめとして様々な事業を行っている。

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●6次産業化の実現

「北斎館」が開館した昭和51年、この年3万5千人の観光客が訪れたことに町の人々は驚いた。現在、小布施町に訪れる観光客は年間120万人にのぼる。栗菓子企業は卸業から店頭販売への転換を遂げた。生産から加工、販売を一貫して手掛ける6次産業化が実現したのである。これは栗関連産業のみならず、リンゴ・ブドウ・モモなど果樹を中心とした農業立町を目指す小布施町のあらゆる産業に波及していった。

●未来戦略

小布施町の人々は、観光客の数ではなく、満足度を高め、人と人がふれあい親しみ信頼関係を築くことが「小布施の交流」だという。そうした中、かつてモータリゼーションの時代を睨みながら集客に成功した小布施町であるが、今、「車から人へ」をテーマにパラダイムシフトを図っている。
そして、今後予測される人口減少に対しては若者の移住や起業のきっかけづくりとして「小布施若者会議」を毎年開催している。
「小布施らしさ」を武器に、多様な世代が混ざり合い、老若男女が楽しめる魅力的な町を目指している。