「清里の父」の理想をつないで-萌木の村-

●開拓の地

標高1,200メートルの清里。今では観光地としてその名を知られているが、かつて八ヶ岳山麓の小さな村だった。昭和初期、「東京の水がめ」と言われるダムに沈む村から清里の地へ入った人々をはじめとする入植者たちの辛苦によって開拓された土地である。
その後、米国の宣教師・ポール・ラッシュ博士が「食糧」「健康」「信仰」「青年への希望」の理想を掲げ、その実践を展開していった。これに生涯を捧げたポール・ラッシュ博士は「清里の父」と呼ばれ、現在そしておそらく将来にわたって、この地に生きる人々の中心にあり続けている。

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●清里の開発

日本が高度経済成長を遂げる頃から、清里は大きく変わった。急激な開発によって「ミニ原宿」と呼ばれるほど観光客が押し寄せ、町は乱開発の波にのまれていった。経済的には豊かになったが、経済性以外には価値がないかのような風潮に危機感を抱いたのが、「萌木の村」を経営する舩木上次氏であった。舩木氏は幼少の頃からポール・ラッシュ博士と身近に接していた。ポール博士の考え方とは異なる方向へ向かう清里に大きな危機感を持ったのである。

●オルゴール博物館

舩木氏は、清里の仲間30人ほどでヨーロッパへ研修に出かけた。途中、ドイツ・ミュンヘンに泊まった際、ホテルの横で骨董市が開かれていた。そこで出会った一台のオルゴールに衝撃的な感動を覚え、迷わず購入した。直感的に「清里に合う」と感じたという。
そして、舩木氏はオルゴール収集に奔走する。高額なオルゴールの購入にあたっても様々な手を尽くした。結局、銀行から「あなたに収支がとれなくても、地域全体には大きな経済効果がある」として融資を受けることができた。コレクションにあたって次第に信頼も得るようになり、現在では260台の自動演奏器を所蔵している。

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●博物館運営の転換

「清里の新しい文化の核となるように」との願いを込めてオルゴールの博物館「ホール・オブ・ホールズ」が開館したのは昭和61年。開館当初は年間20万人が来館した。自動演奏器(オルゴール)のコンサートを行い、学芸員も4人採用した。パイプオルガン制作の第一人者の職人が招かれて工房を構え、自動演奏器のメンテナンスを担当する。研究活動も積極的に行い、年間2,000万円を研究費に費やしたこともある。しかし、バブル崩壊後、博物館の経営は厳しくなり、学芸員の雇用も継続できなくなった。
素晴らしい自動演奏器のコレクションにも関わらず、なぜ、入館者が減少したのか?それは「その良さを伝えられていないから」と舩木氏は考える。「作曲者のメッセージを伝えなければただの美しいメロディ」でしかない。そこで、3年前から、生の演奏家と自動演奏器とのコラボレーションによるメッセージ性の高いコンサートをスタートさせている。

●必然の追求

「たとえ観光客に見放されたとしても、萌木の村の価値観に合った人にだけ訪れてもらえればいい」と舩木氏は考えている。「この時だけ、この場所だけ」という「必然」を共有できる人たちとの交流を望んでいる。
オルゴール博物館と並んで、萌木の村には、もう一つ柱としている文化事業がある。平成2年から開催しているフィールド・バレエである。日本で唯一、毎年上演されている野外バレエは、第一人者の制作・キャストによるもので、毎年数千人から一万人が鑑賞する。
萌木の村から発信される様々な文化情報は、パブリシティとして各メディアで報じられ、広告規模は数億円にのぼると試算される。そして、これらの来訪者を受け入れるサービス施設は近隣市町にまで及ぶ。「地域の中で、一人勝ちはあり得ない」とする舩木氏が経営する萌木の村は、間違いなく集客力の発信地となっている。

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●リーダーを育てる

現在、萌木の村では、ガーデンデザイナーのポール・スミザーとともに、10年計画で環境整備を行っている。残り1,000tの石積みを積み、100年後に生かされる景観をつくっていく。
萌木の村の若者たちがそれぞれに夢を抱いている。そうした若い人たちの応援をしていくことに全力を注いでいる。リーダーになる人を育てるのが舩木氏の思いだ。「リーダーは、今より未来、自分より他人を考えることが出来る人。そして感動する人。一流であることは感動することであり、一流で居続けることが本物である。」